2000/04/05
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表紙

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カメラ雑文

[383] 2002年11月12日(火)
「魚眼レンズ観」

魚眼レンズは特殊な範疇のレンズであり、通常の撮影では使われることが無い。
その独特なディフォルメ効果は、被写体を非現実的な形へと変形させる。そのため、一般撮影として「見たままの形」を描写する用途としては不適当なレンズと言える。

魚眼レンズは大きく分けて「全円周魚眼」と「対角線魚眼」の2種類がある。
「全円周魚眼」は、画角180度前後に含まれる全てのものが円形に写り込む。
「対角線魚眼」は、全円周魚眼のような円形にならぬようイメージサークルが画面の外までハミ出るようになっている。その結果、180度の画角は対角線でのみ実現されることになる。
(それ以前に射影方式による違いもあるが、商品としての選択肢は全く無いのでここでは触れない。)

理由は分からないが、MF時代には全円周魚眼レンズは当たり前のように各メーカーにラインナップされていたが、AFシステムが主流となった現在では、対角線魚眼レンズ止まりで全円周魚眼レンズは用意されていない。唯一、レンズメーカーのシグマから発売されるのみ。
恐らく、全円周レンズは一般向け用途としては使いにくく、あまり売れないのではないかと推測する。
そう言えば、ゼンザブロニカの対角線魚眼レンズも入手するのに一苦労だった。魚眼レンズ自体、あまり売れないというのは疑いようが無い。

魚眼レンズが使いにくいというのは、使い手の思想に影響すると我輩は見る。
写真を芸術として捉えるのか、あるいは記録として捉えるのか。更に、記録するにしてもディフォルメを許さず見たままを記録するのか、それとも写角を優先しディフォルメを許すのか。

写真を趣味として見た場合、大抵は写真を芸術(表現手段)として捉えていると思う。
シャッタースピードや絞り値、フィルター、フィルムのタイプ、交換レンズなどの要素は、写真の表現手段として自分のイメージに合うよう選択される。
それら要素の選択パターンは人それぞれに個性があり、それが写真を表現手法たらしめていると言える。逆に、表現手法を単に奇をてらうために使うのであれば、同じ表現手段はすぐに飽きてしまい個性として昇華させるに至らない。
魚眼レンズは他の一般的なレンズと違い、その描写には強烈な個性がある。そのため芸術として捉えるならば、それはお手軽な表現手法の一つとなる。円形に歪んだディフォルメは、日常風景を非日常に変え、それだけで芸術写真を撮ったような錯覚に陥る。これは、LOMOグラフィーにも似る。
このような特殊なレンズを芸術の域で使い続けるには、自分なりの思想無くば難しい。思想無く多用し続ければ、いずれその手法に飽きてくる。
よって、一般の趣味人にとっては、魚眼レンズを通常のレンズと同列に扱い日常的に使うことは難しい。

さて一方、写真を記録として見た場合、その多くは見た目そのままを写真として残すことを目的としている。
例えば、家族写真や旅行、学校行事撮影などがそれに相当する。
たまに、家族写真で魚眼レンズを使い不評を買ってしまったという話を聞くのは、記録の目的として「見たままを写す」ということから外れているからである。魚眼レンズによるディフォルメだと理解していたとしても、自分の顔が歪んで写されるのは面白くない。

ただ、記録とは言っても形状にこだわらずに写る範囲を優先させるという使い方もある。
我輩が最初に魚眼写真を目にしたのは、子供向け図鑑の中の「宇宙・気象編」に掲載されていた雲量測定の写真だった。青空一面の白い雲が、地上の風景を円周ギリギリにまで取り込みながら見事に1枚の全周魚眼写真に凝縮されていた。それは子供の目にも、大きな説得力を持った写真として映った。

さらにその後、科学雑誌Newtonでスペースシャトル・コロンビアの初打ち上げが特集され、その船内の魚眼写真(確か対角線魚眼)を目にした。狭い船内を見事に捉えた良い写真だった。我輩が直接見ることの出来ない狭い船内を、実に良く伝えてくれた。

これらの写真は、我輩にとって魚眼レンズの第一印象を決めたと言って良い。
芸術だの、表現方法だの、そういう軟弱なことを議論する余地など全く無く、「180度の写角が必要であるから使った」とハッキリ解る、明快な存在意義を持った写真だった。


1982年、福岡で「ふくおか'82大博覧会」が開催された。実物大スペースシャトルの模型や巨大屋外テレビ「オーロラビジョン」が展示されており、中でもジェミニ宇宙船の実物展示には目を引いた。その底面は大気との摩擦で焼け焦げており、実際に宇宙へ行ったということを実感し興奮した。
しかも、その展示にはタラップが設置されており、列に並べばその宇宙船のコクピットの様子が見られるようになっていた。
我輩は手に入れたばかりの一眼レフ「Canon AE-1」と「NewFD 50mmF1.8」、そしてストロボ「188A」を装着し、列に並んで順番を待った。
実際に目の前に見るそのコクピットは、思った以上に狭く小さかった。50mmレンズでは、その一部しかファインダーに映らない。そのままシャッターを切るしか無かった。


写真は、ストロボもうまく調光し写り自体は良かった。欲を言えば、雑誌Newtonに掲載された魚眼写真のように、可能な限り視野を凝縮させてフィルムに焼き込みたかった。
我輩が初めて、魚眼レンズを意識した瞬間だった。


また、それと同じくらいの時期だったと思うが、我輩はしばしば友人と学校の校庭や刈り取り後の田んぼの中で星の観測をしていた。満天の星空に自分の存在の小ささを、寒さに足踏みをしながら感じた。
そのあまりに広い視野に広がる夜空の星は、確かに宇宙の半分が見えている。その様子を写真に捉えることは不可能。なぜならば、当時の我輩のカメラとレンズでは、その一部しか捉えられない。
ふと、幼い頃に図鑑で見た雲量測定写真が甦った。
我輩が二番目に魚眼レンズを意識した瞬間だった。


その場の空気を死角無く切り取る魚眼写真。
映像は歪んではいるが、我輩の脳内で展開され自分の周囲を包み込む。

もし、目に見えた形だけにこだわるならば、例えばピカソの絵など子供の落書きにしか見えまい。キャンバスという平面に、立体すら越えた人間の深い心を投影するには、その心を平面に展開し描き込む以外無い。それがピカソの絵画であり、理解する者を選ぶ理由である。
(ピカソの話は例えであり、我輩がピカソの絵を一番理解しているという話ではない。)

魚眼レンズのディフォルメは、何も、芸術を気取った描写では決して無い。あくまで、180度もの超視野を平面上で展開するための歪みである。我輩はその歪みに、平面では表現し切れない広い現実視野を体感する。現実視野の情報量を無理矢理詰め込んだ痕跡、それが、魚眼レンズの歪みであるのだ。

魚眼写真を見れば、そこにある風景が我輩を包み込む。あたかも、自分がその世界にいるかのように。
果たして、形だけにこだわる者に同じ風景を観ることが出来るだろうか。芸術抜きの魚眼写真を理解出来るだろうか。

しかし、他人が我輩と同じ風景を無理に観る必要など無い。雑文260「趣味性」でも書いた通り、我輩の趣味性は「情報量」に尽きる。他人に観せるために撮るのではなく、自分に観せるために撮る。それが我輩のこだわりであり、写真に求めるものである。

魚眼レンズは、その手段の一つとして我輩に必要な道具となった。