2000/04/05
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カメラ雑文

[875] 2017年09月11日(月)
「神格化」


子供の頃、テレビで「水戸黄門」を観て印籠に憧れ、プラスチック製のイミテーションを買ってもらった覚えがある。もちろん、葵の御紋付きのもの。
印籠は、それを手にした者に無限の力を与える魔法のアイテムのように我輩の目に映った。おぼろげな記憶では、水戸黄門の印籠が盗まれて悪用されるというエピソードがあったような気がする。悪用出来るということこそ、印籠が特別なアイテムだったからに他ならない。

他にも、「太陽にほえろ!」など刑事物ドラマの影響を受けて、警察手帳を自作したりした。
仲間に警察手帳を見せて「七曲署の者だ」と言うと、相手は抵抗するすべを失ってしまう。まあ、演技だが。
もちろんそれが本物の警察手帳であったとしても、身分証が入った単なる手帳でしかない。それでも手帳を越えた価値をそこに感じたのは事実なのだ。

そう言えば、「ダーティー・ハリー」の44マグナムや、漫画「ナナハンライダー」のナナハンバイクも、世界最強の位置付けを持つ神格化された価値を持つアイテムだった。

今から考えれば、印籠は単なる薬入れ、警察手帳は単なる身分証入りのメモ帳、44マグナムは世界一の威力を持つ拳銃ではなくなり、ナナハン以上の排気量のあるバイクは普通に存在する。


さてカメラの分野でも、本来の目的・能力から離れてしまって神格化されているものが幾つかあるように思う。つまり、実際上の価値はそれほど無いはずなのに、なぜかそれ以上の特別な価値があるかのように扱われているものである。
ここでは、思い付く範囲で項目を挙げた。

●一眼レフ(デジイチ)
以前書いた「雑文783」にも、「一眼レフ」の神格化については述べたことがある。
カメラに詳しくない者でも「一眼レフ」とか「デジイチ」という言葉だけは知っている。ところがその認識は「プロが使うスーパーマシン」というものになってしまっている。これは一種の「水戸黄門の印籠」であろう。「一眼レフ」と聞いただけで「おみそれしましたー!」と皆がひれ伏すのだ。

以前豚児に低性能フォーサーズ一眼レフを使わせていた時、それを目にした通行人があからさまにビックリした顔をして二度見したことがあった(参考:雑文788)。
それなどはまさに、「選ばれし者しか持てぬ一眼レフ、なぜに子供ごときが?!」という一般人の意識であろう。いや、カメラユーザーの中にも一眼レフを神聖視する者が少なからずいるようである。

もちろん、ユーザーの中には実利的な要求として一眼レフカメラならではの機能・性能を欲する者がいたり、あるいは昔から一眼レフに馴染んで離れられないという中高齢者もいるだろう。それらは、分かって使っている者たちである。それは良い。

しかしながら、条件反射で「本格的にやるなら一眼レフ」と、盲目的に一眼レフを導入する者がいることも事実。
以前の「雑文867」にも書いたが、ちょっと力の入ったママさんカメラマンが一眼レフカメラを選ぶのは、十分に吟味したうえでの選択ではなく、一眼レフありきの選択だった。ご自慢の一眼レフで撮った写真がとてもそうとは思えぬ画質(※)であったことは、何よりもそれを示している。
(※このケースでは、せっかく操作自由度の高い一眼レフを使っているにも関わらずフルオート設定でしか使わないせいで、低照度下では自動的に超高感度となってノイズまみれとノイズリダクションによる塗り潰しとなり、オートホワイトバランスもミックス光ではカット毎に色が転んでいた。)

かつてフィルムの時代、広角域ではミラーボックスの無いレンジファインダーカメラ(フィルム時代のミラーレスカメラのこと)のほうが画質が良く、ブラックアウトが無いため即写性が高いとされてきた。一方一眼レフは、画質や即写性よりも汎用性を優先したものという認識があったはずである。

ところがデジタルカメラの時代になってから急に、「一眼レフだから画質が良い」とされるようになった。
この理由は、一眼レフの構造上(原理上)の特性ではなく、「高コストの中に最新技術を盛り込み易い」という理由があったに過ぎない。つまり、「高くても買ってくれるカメラだから、金に糸目を付けず技術を投入して作ることが出来た」ということだ。

確かに一昔前のデジタルカメラはそうだったかも知れないが、今はミラーレスカメラでもAPS-Cやフルサイズのイメージセンサーを持っているものが増えてきた。AF速度も遜色なくなり、一般用途には何も問題無い(合焦精度については、撮像面で測距するミラーレスのほうが原理上高い)。そうなると画質は一眼レフと同等、もしくは比較対象によっては一眼レフを越える場合もある。

だがそれでも、一眼レフ信仰はゆるぎない。
カメラを買おうとしている者がミラーレスカメラを見て「この値段なら一眼レフが買えるじゃないか」と言うのをよく聞く。
一眼レフが買えるならどうだと言うんだ?


●プロカメラマン
「プロカメラマン」と呼ばれる範疇は、その言葉を使う者によって大きく変わる。
いわゆる職業カメラマンであればその範囲は広く、街の写真屋さんまで含まれることになる。

だが世間一般に言われる「プロカメラマン」と言えば、まさに神格化されたイメージの存在。これは我輩個人が持つ勝手なイメージではない。なぜならば、「プロカメラマンが認めた」とか、「プロ用カメラ」とか、そんなキャッチコピーは腐るほど目にするからだ。「プロ」という言葉は、まぎれもなく「特別な存在」という意味を含んでいる。まさか地味な「業務用」という意味でキャッチコピーを作るまい。

確かに、特別な存在に近いプロカメラマンはいる。ニコンのNPSやキヤノンのCPSなど、メーカー登録されるプロである。
これは、メーカーが自社のプロ向けサービスを提供するために一定の条件のカメラマンを承認する登録であり、カメラマンとしてのハクを付けるためのものではないが、「あのキヤノン、ニコンが認めたカメラマンだ」という意識が生まれても不思議ではない。

かつて(1980年代)、プロ登録カメラマンへ支給された「プロストラップ(通称プロスト)」がアマチュアカメラマンの間で人気を集めた。当時は非売品だったのでアマチュアが手に入れることは原則出来なかったはずだが、闇では1本数万円で取引きがあった。「Professional」と刺繍されただけのただのストラップに数万円出すなど、まさに水戸黄門の印籠や警察手帳に憧れる心理であろう。
実際、このプロストラップがあればどこでもフリーパスと勘違いして騒動を起こすアマチュアもいたと聞く。

そこから想像するに、「プロカメラマン」という一般的イメージは、アート系あるいはスポーツ・報道系など、大きなカメラとレンズを派手に使いまわすイメージのカメラマンであろうか。

我輩は勤務先では発注担当であるので、プロカメラマンに発注することは多いのだが、その内容は地味な集合写真や記録写真などが多い。
しかしながら、150人の集合写真などもあり、そういうものを撮るのはシロウトでは難しい。なぜならば、それほどの人数になればロケーション調整(届出等)が必要であるし、ヒナ壇も5段くらいのものを用意して搬入・搬出する必要がある。被写体が複数組あればタイムスケジュールの調整と現場仕切りなども要求される。

シャッターを切るだけならば誰でも集合写真は撮れるだろう。だがそこに至るまでの関係各所の交渉や力仕事、トラブルを防ぐ細かなノウハウと心配りなど、その筋のプロでなければ出来ない仕事と言える。
だがこういう泥臭いプロは、一般的イメージのプロとは異なる。

色々と書いたが、要するに「プロ」という言葉の面倒臭さだけは解っただろう。だからいっそのこと、「プロ」という言葉が無くなってしまえばスッキリするのにと思う。単純に「職業カメラマン」で良いではないか。


●モノブロックストロボ
Web上では、「プロに学ぶモノブロックストロボ講座」とか「モノブロックストロボで本格モデル撮影」などというコピーを見ることが多い。まるで、モノブロックストロボが近寄り難いプロの道具だという前提があり、プロがやさしく手ほどきするという構図が目に浮かぶようだ。もちろん、ここで言う「プロ」は、前述の神格化された「プロ」のことである。

我輩は「モノブロックストロボ」と「本格的」という言葉がどうしても結び付かず、このようなコピーを目にするたびに違和感を持つ。

さすがに一般人は「モノブロックストロボ」という言葉すら知らないとは思うが、写真を趣味にしている者には認知が進んでいるようである。とは言いつつ実際には、モノブロックストロボはおろかクリップオンストロボさえ使わない者がほとんどであろう。新しいカメラが発表されるたびに「高感度特性は?」と気にするユーザーの声の多さを見てもそれが分かる。初心者であろうがベテランであろうが関係無く、多くのカメラマンはストロボ撮影を嫌うものなのだ。
そんな彼らに縁の無いストロボの世界ゆえ、AC電源で使うモノブロックストロボというのは、スタジオでライティングをするプロの姿が思い浮かぶ。だからこそ、神聖化されてしまうのであろう。

だが本来、モノブロックストロボというのは、あくまでも簡易的な補助ストロボに過ぎぬ。

確かに、1灯運用だけならばモノブロックストロボのほうが面倒は少なく効率的だろう。
電源部、コンデンサ部、コントローラーパネル、キセノン発光管、それら全てをひとつにまとめたもの。例えるならばラジカセみたいなものだ(モノブロック=一体型)。
だが多灯で使うとなれば、スピーカーを増やすためにラジカセを複数台使うかのごとく、モノブロックストロボも複数台必要となる。コンセントも灯数分必要になる。

<全てが一体化されたモノブロック式ストロボ>
(※画像クリックで長辺1200ドットの画像が別ウィンドウで開く)
全てが一体化されたモノブロック式ストロボ

その上、大光量タイプになればなるほどコンデンサが大きくなるので、当然ながら本体そのものも大きくなる。そんなものが灯数分あれば取り回しが大変。単純なスタンド設置ならば大丈夫かも知れないが、少々込み入った部分に設置するようなブツ撮りでは苦労があろう。
小さなスピーカーだけ設置すればいいのに、ラジカセ本体まるごと設置していくのを想像してもらえば、その効率の悪さは理解出来るはず。

それに対し、本体と発光ヘッドを分離させたジェネレータ式は、灯数が増えても本体は1つだけで済む。例えるならばオーディオコンポである。軽量なスピーカーだけ設置するのを想像してもらえば、その効率の良さは理解出来よう。

<発光部が分離しているジェネレータ式ストロボ(小出力タイプ)>
(※画像クリックで長辺1200ドットの画像が別ウィンドウで開く)
発光部が分離しているジェネレータ式ストロボ(小出力タイプ)

プロとしてスタジオを構えて撮影するならば、わざわざモノブロックストロボを何台も使うよりも、サクッとジェネレータ式を使えば済む話。効率的で失敗の無い運用により利益を確保しようとする業務用途で、非効率な道具をわざわざ使う理由が思い付かない。我慢大会か?

あるいは出張撮影などで手軽さをモノブロックストロボに求めるならば、むしろクリップオンストロボをオフシューで使うほうが良かったりする。
モノブロックストロボはコンデンサの大きさが本体の大きさに比例するので、可搬性の高いものは出力も小さく、モノによってはレギュラータイプのクリップオンストロボと光量がそれほど変わらないことすらある。だからデジタルカメラの感度を1段上げれば同じように使える。
(クライアントの目を気にしてわざわざモノブロックストロボを使うケースもあるが)

以上述べた通り、モノブロックストロボはラジカセのごとく中途半端であることは否めぬ。そんなものがプロ御用達というふうに神格化されているのを見ると、首を傾げざるを得ない。


●背景ボケ
背景の大きくボケた写真というのは、まさに素晴らしい写真の代名詞である。
何しろ、憧れのカメラである一眼レフで撮るのだから背景をボカすしかないし、憧れの対象であるプロのような写真を撮るためにはやはり背景をボカすしかない。だから、背景ボケは憧れそのものなのだ。

もちろん、今言ったことは皮肉である。

最近は、何でもかんでも、ボケ、ボケ、ボケ。もう、ボケという言葉を聴くだけでも頭がクラクラしてくる。
新しいレンズが発売されるたび、「このレンズはボケが大きいですか?ボケがキレイですか?」というコメントばかり。絞り込んだ写真を見せれば、「ボカさず撮るならスマホで撮る写真と変わらないのでは?」という声が聞こえてくる(実際言われた)。

背景ボケというのは、主題を浮き上がらせる効果を狙った写真表現手法のひとつに過ぎない。と言うことは、他にも手法はあるということ。それなのに、背景ボケ写真のみがもてはやされているのはどういうことか。

以下は、我輩がこれまで写真分野での動きを見てきたことを参考に、架空の物語として作った推測ストーリーである。

−−−近年、携帯電話やスマートフォンを通して写真撮影に興味を持つ写真初心者が多く発生した。一般的に言えば趣味の裾野にあたる層である。
そんな初心者たちが本格的にカメラを始めようとして、憧れの一眼レフに興味を抱くようになり、知り合いやWeb上で相談したところ、一眼レフらしい作例として敢えて背景ボケ写真を提示された。その写真を目にして「やっぱり一眼レフは違うな」と感動し、それ以降は背景ボケが良い写真の判断基準となった。
背景ボケの神格化は、ここから始まった。
一方、ユーザー間の繋がりの強いSNSが流行し、写真作品系のSNSも多くなった。SNSは人気投票的な機能を持つため、人気を集める写真をいかに撮るかという方向性が強くなった。 その結果として背景ボケ写真が多くの人気を集めたことにより、自然淘汰によって背景ボケ写真ばかりが残り大多数を占めるに至った。それは、背景ボケ写真の神格化という下地があったからに他ならない。−−−

現在は「ボケが大きいほど勝ち」という風潮すらあり、背景だけでなく主要被写体すらボケて何が写っているのか分からない写真も珍しくない。そういう写真がより人気を集めるのだから仕方無い。

<メインの被写体すらボケている>
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メインの被写体すらボケている

もはや写真とは、撮る側の思想を表現するものではなく、観る側に操られて撮らされる時代なのだ。多数の人気を集めることだけが写真を撮る動機であり、見た目にキレイな写真は増えたが、どこか似たようなものばかりになってしまった。
神格化の犠牲者たちよ、哀れなり。


●金属製
最近、カメラやレンズの外装が、意味無く金属製であることが多い気がする。
確かに、強度と精度を必要とするカメラやレンズには、金属素材は必要であろう。例えばイメージセンサーの発する熱を逃がすために金属シャーシが重要なのだともいう。
しかしながら、人間の手が触れる操作部材が金属そのままというのはどうかと思う。

我輩がここ数年購入したカメラやレンズを見ても、手が触れる部分が金属製であることが多く、少々難儀している。
例えばレンズでは、ズームリングとピントリングが金属製で、滑り止めの刻みがあるものの、実際には刻み目が細か過ぎて滑り止めの役目を果たしていない。しかも冬の寒い時期には冷たくて触るのもイヤになる。かと言って手袋などすればさらに滑って回せない。

<憧れのオール金属製レンズ・・・か>
(※画像クリックで長辺1200ドットの画像が別ウィンドウで開く)
憧れのオール金属製レンズ・・・か

仕方無いので自分でズームリングにウレタンを貼り付けたが、材料が良くないせいか使用感はあまり改善しない。こんなつまらないことにいちいち苦労させられるのはどういうことか。そこそこの値段がする製品であるのに。

こういった傾向は、メーカーがユーザーの声を聞き過ぎていることが原因ではないかと思う。
実際我輩も、メーカー2社から製品アンケートの依頼メールが何度も来た。恐らく、Webアンケートやカメラ系掲示板の書き込み、そして展示会で訪れたユーザーのヒアリングなど、ユーザーからの声には金属製の要望が多かったのだろう。実際、Web上では「金属製の質感が良い」とか「金属でないので残念」などという書き込みは多く見る。
どこかおかしくないか?

昔を思い返せば、カメラの操作部材で金属そのままの状態が放置されたことはあまりなかった。
例えばフィルム巻き上げレバーなどでは、前期型では金属無垢であったとしても、後期型では改良されて樹脂製の指当てが付いたりしたものだった。セルフタイマーレバーも同様。
レンズのピントリングにしても、初期は金属そのままであったが、後にゴムが巻かれるようになったのである。こういう仕様変更は、使い勝手を第一に考えて改良された結果であることは言うまでも無い。

カメラは屋外に持ち出して厳しい環境の中で使われることを想定した道具であるから、ちょっとした使い勝手が生死を分ける(この場合の「生死」とは、狙った写真が得られるかどうかの話)。
ズームリングやピントリングだけでなく、高級カメラではシャッターダイヤルさえゴム巻きされていた。昔のプロ向け改造サービスでは、滑り止めシートの貼り付け加工などがあり、実用一辺倒の見掛けを気にしない無骨な姿に憧れたものだ。

今の時代、どうも金属製ということだけが神格化され、使い勝手が良いかどうかなど問題にされないようだ。ともすれば、「多少使い勝手が悪くなろうと金属製であれば良い」というような風潮すらあり、呆れて言葉を失う。